天国はどんなところですか・・・美味しいものがたくさんある。天国のヒトはみんな1mにもなる長い箸を持っておってな、お互いに食べさせてあげながら、みんな助けてあげている。
地獄はどんなところでした・・・天国とはあまり変わらない。美味しいものが沢山ある。地獄に落ちたヒトは同じような長い箸をもっているが、自分で食べようとしても食べれないから、みな餓えてお腹を空かせて苦しんでいる。
というような話。ちょっと聞いたので調べてみると、長い箸のバージョンも1mのバージョンも2mのバージョンもある。長いスプーンのバージョンもある。片手が椅子に縛られているバージョンもある。
孔子が語ったとの話もあれば、別の宗教での経典に書かれているとの話もある。いずれにしても、利他の心を以って当たることができれば天国でもあるし、利己の心を持って当たれば結果には繋がりにくいという戒めなんだと思う。
「動機善なりや、私心なかりしか」・・・
利他の心から稲盛哲学を思い出したら、ここにちゃんとまとめて載せてくれてた*1
大昔、普段にフィロソフィーに携わる習慣が周りにないと、「フィロソフィー」に傾倒しているヒトが非常に奇異に見えた。それが企業経営の中にフィロソフィーが組み込まれ、毎回フィロソフィー研修で、普段の業務でフィロソフィーで何を引用してどこで活用しているかを勉強会で語り合ってくると、フィロソフィーが考え方の基本になってくる。大きな仕事になればなるほど、ステークホルダーが多くなってくるほど、「動機善なりや、私心なかりしか」を反芻して見直してみる。
利他の心についても、フィロソフィーの中に含まれている。柄の長い箸やスプーンは困難性の象徴で実際のプロジェクトでは難解な要件、少ない投資金額、利益が相反するステークホルダーという形で見えてくるのかもしれない。まずそれぞれのヒトに食べさせてあげれば、相手からも食べさせてもらえる。信頼関係ができれば、それぞれに満足できて、飢えることを心配する必要もないということなのでしょう。
と考えると、現世も、現プロジェクトも、実は天国にも地獄にもなりうると、自らへの戒めとしてまとめてみた。