青葉台駅伝言板

考えをまとめるための日記。頭を整理するごとに書き換えてしまうので、そんなつもりで優しく見てくーださぃ

3月11日

東日本大震災から13年。

 

 その時は、新宿の高層ビルの最上階の会議室にいた。自社で買うサーバの最後の価格交渉。発注側の代表者の一人として、そろそろこんなものか、あと1%なんとかならないものか、と、交渉していた。

 その時、にわかに全体が揺れだした。揺れ、といっても、ガタガタガタというものではなく、高層ビルの長周期振動のため、自分の座っている机と椅子が流されていく感じ。大袈裟に言うと、プールのウォータースライダーみたいな感じ。踏ん張っても踏ん張っても、流されるのが止まらない。

 窓の外を見ると、他の高層ビル群が、同じように大きく揺れている。「自分たちも同じなんだな。(ビルが)ポキっと折れたら、落ちていくんだな。ことが大きすぎて、恐怖感は感じない。東の海の向こうに、火事のような煙も見えた。

 そんなことを考えていると、受注側の彼らは、「今日はもう、打ち合わせになりませんね。本日は退散します」と、エレベータの止まった最上階から、一目散に非常階段を降りていった。

 

 さて、と。こちらは帰るわけにはいかない。自分の本拠地は他の拠点だったのだが、まずは災害対策本部(となる部屋)に駆けつけた。TVは大津波警報を知らせている。壁一面のホワイトボードを眺めつつ、

「さてと、何を書こうか」

「まずは、停電の地区と戸数でも書いていこうか」

と、おもむろに書き始めた。

 

 その日のうちに、東北にも対策拠点を設けることになり、自分と一緒に価格交渉していた仲間は、翌日には仙台に言っていた。最初は1日2回社員の安否確認を行い、帰宅できるヒトは帰宅してもらう。逆に残って監視をしないといけないヒトに選り分ける。

 その時の自分の所属部署は平均年齢も高く、通常は大人しすぎるくらいの部署。しかし、震災で様々なシステムが稼働を問われる中、みんなキビキビと、むしろ普段よりも活発に仕事に取り組んでいただいた。コンビニにもおにぎりなどない中、会社に泊まり込んで3日め。自分が一旦帰れる場面をいただいた。

 電車の時刻表の時刻も当てにならない中、数の少ない電車を待った。もともと、自宅待機のヒトも多かったので、遅いけれども、それほど変えるのに苦労したわけではない。電車で1時間半くらい、都心から離れたら、都心とは別世界のように、コンビニも開いているし、人々が通常の顔で歩いていた。

 

 そのあと、1日家に帰り、また一週間位、ホテルとかに缶詰で勤務。特別シフトは2週間くらいだったろうか。その間、原発の事故は起こり、その後の雨で汚染されるのではないかとの意見も多数あった。その間にホワイトボードの内容は、継続的にウォッチして意思決定すべきものの数字に置き換わっていった。

 

 日本はどこでも地震が起こりうる。と、今年も元旦から身にしみた。リスクは対策しないといけない。情報システムなら、冗長化したり、免震にしたり、監視拠点を東西に分けたり、グローバルに分けたり。

 

 リスクはリスク。対策をしないといけない。対策というのは、影響を考えて、その影響が軽減できるようにどのように対策をするか、ということ。

 一番良くないのは、考えないとか、起きないとたかをくくること。所謂無謬性は、何のリスクヘッジにもならない。まずは、真剣にリスクと向き合わないといけない。真剣に考えることは、大事なことだ。

 

 まあ、そもそもオンプレのサーバの価格交渉をしたいたのだが、これは地震のせいではないが、技術トレンドの波で、クラウドに取って代わった。